無自覚でも、その一言に救われた

階段を昇り切った先に広がる空間。 閉鎖的とも言えるこの建物内において外を感じることが出来る唯一の場所。 顔を巡らせれば、眼下に立ち並ぶ家々と澄み渡った空が視界に入る。 その一角、フェンスの上で腕を組んで風景を眺めている人影があった。

「肺に穴を開けた重病人がこんなとこで何してんだ」
「寝てるばっかりでは暇なんだよ。それに、重病人はお互い様だろう?」
「オレはおまえらと違って鍛えてるから重病人じゃねぇよ。見ろよ、この筋肉を」
「それもそうだったね」

振り向いたの髪が風に靡くのを見て、真人は微かな違和感を覚えた。 ふむ。と顎に手を当てて考えてみるも何が違うのか分からない。 元々考えるのは苦手な性質であるため、思い付かないなら大したことではないのだろうとすっぱり考えるのを止めた。

「それで、真人はどうして此処に?」
「部屋で筋トレしようとしたら同室のヤツに追い出されたんだよ。視界に入らないとこでやってくれってな」
「正論だね。病室で筋トレしようなんて考えるのは君くらいのものだ」
「だからってやらないわけにはいかねぇだろ。ここ暫く動けなかったせいでオレの筋肉がこんなに減っちまったんだからな!」
「私から見れば十分な程の筋量だと思うけれどね。それにしても……本当に君は何があっても変わらないな」

の言わんとしていることが伝わったのか、真人の表情も引き締まったものになる。 あの事故から数週間が経過して記憶も薄れつつある。 だから、真人もはっきりと覚えているわけではない。 ただ、『そういうことがあった』ということだけは覚えていた。

「俺は馬鹿だからな。難しいこと考えるのはおまえらがやってくれるって分かってたから任せただけだ」
「不変、というのはそんなに簡単なことではないだろう。あんな状況なら尚更だ」
「褒めてもなんも出ねーぞ」
「事実を言ったまでだよ。私達の中で一番大人だったのは真人だったんじゃないか、そんな風にさえ思ってる」

未来これからはない。 そんなどうしようもない事実を目の当たりにして、それでも『これまで通り』であることがどれほど難しいか。

成長を促すもの。
停滞を望むもの。

その間において、日常を守り続ける。 変わらない日々、同じ生活を真人は二人に与えていた。 あることが当たり前になっていたから、そのことに感謝することは少なかったかもしれないが、二人にとって真人はきっと誰よりも無くてはならない存在だっただろう。

「そうか? オレから見れば、おまえの方が凄いと思うぜ」
「意外な発想だね。どの辺りからそう思ったのか聞いても?」
「おまえの事情とか全部聞いた今だからってのもあるかもしれないけどよ、おまえだって謙吾みたいにやりたかっただろうにそれをしなかったからな。オレは自分の好きなようにした。でも、おまえはそうじゃなかったってことだろ?」
「敵になるか味方になるか、それを秤にかけただけだよ。私が好きなようにすれば確実に困らせてしまう。どうせ最後なら、良い関係で終わりたいと思ったからね」

の望む世界。 それは謙吾と同じく停滞だった。 いつまでも彼らと、彼と一緒に居る。そんなことを望めるわけがない。 自惚れではなくは知っていたから、彼もまた彼女を想っていることを。 だからこそ、これ以上の重荷を背負わせたくはなくて、彼女はその想いを深く閉ざした。 いずれ訪れる別れが少しばかり早くなっただけなのだと、自分に言い聞かせて。
――今となってはそれも関係ない。

「そういうもんか?」
「そういうものなんだよ。私も自分の好きにしたことに代わりはない。それも、自分勝手な打算に満ちた選択をしたということさ」
「つまり、恭介を困らせないことがおまえの目的だったってことか?」
「鈴のためでも、理樹のためでもなくね。碌なものじゃないだろう」

自嘲するように呟くの表情は髪に隠れて見えない。 ただ、彼女が意図的に自身を貶めようとしていることは真人にも分かった。

「おまえが思ってるほど酷い話でもないとオレは思うけどな」
「どうしてそう言える?」
「だってよ、少なくとも恭介はどうしてそんな考えに至ったかも含めて全部、おまえのやってることについて理解してただろうしな。だったら、おまえにそれを選らばせたことを悪いを思いながらも、それを選んだおまえに感謝してるだろ。おまえがそうしてなきゃ、オレ達は此処に居なかったかもしれないんだぜ」

全ては彼のためだったかもしれない。 けれども、が彼と同じ道を歩むことを選んだからこそ、二人は強くなれた。 それは彼女が望む世界を作っていたならば叶わなかったことだろう。 彼がそれに気付かないわけがない。 気付いていたが、口に出すことは出来なかった。 彼の望みを叶えるために彼女は自分の望みを諦めたのだから。 この結果は、彼女の選択無くして訪れなかった可能性すらある。
選択の理由など関係ない。 いまここにあることが全てなのだと。 真人が言っているのはそういうことだった。

「……やっぱり、真人が一番大人だと私は思うよ」
「おまえがそういうことにしておきたいんなら、それでいいけどよ」
「なら、私の中ではそういうことにしておこうかな」
「好きにしろ。それより、そろそろ戻れよ。おまえが居るといつまでたっても筋トレ出来ないじゃねぇか。オレの筋肉が汗で輝くところが見たいってんなら居ても構わないけどな」
「確かに、本来ならまだベットで安静にしてないといけない身だからね。大人しく戻ることにするよ」
「そうしろそうしろ。迎えも来てるみたいだしな」

真人が顎で示した先には半開きになった屋上のドアと、そこに寄り掛かるように立っている人物。 自分の足でしっかりと立てていないところからして、どう見ても無茶をしていることは明らかだった。

「おまえといいアイツと言い、どうして一番重症だったはずのおまえらが揃って病室を抜け出すのかオレにはさっぱりわからない」
「昔から何とかと煙は高い所が好きと言うだろう?」
「馬鹿は死んでも治らない」
「そういうことだ」

堪えきれない笑いを零しながらドアで待つ相手の下へ向かうの髪を、再び風が揺らす。 そこで最初に感じた違和感の謎が真人にも漸く分かった。 2年前に再会して以来、解かれたことのなかったの髪。 それが結ばれることなく宙に泳いでいた。


もしかしたら、悲しい思い出作りだったのかもしれない。

ただ滑稽なまでにあの頃の日々を与える。

そして最後には凍った空の下で笑った。

でも、今はもう動く空の下に居る。

    (2012.10.21.) back