とある世界の続き
枕元で鳴り響くアラームが朝の訪れを知らせている。伸ばした手でアラームを止めると、暖かい布団の中でいつまでも眠りについていたい気持ちを抑えながら起き上がる。そこで気付いた。今日の目覚めに異変はない。この身体は紛れもなくであり、人間の姿をしていた。それが当然であるはずなのに、思わず全身を隈なく確認してていたことで同室の人物から不審気な眼差しを向けられてしまった。昨日の出来事は確かにあったことであるのに、まるで夢のようにさえ感じられる。一日経ってしまえばあれだけ不思議な体験をしたとしても、そんなものだということだろう。
身支度を整え終わると、朝食を食べに食堂へと足を運ぶ。なるべくならば遅くまで寝ていたい、学生の考えることなど皆同じであるからこの時間の食堂は正にピークに当たる。その混雑の中でも異色を放つようにぽっかりと空いている場所があった。その机に座っているのは一人だけであり、朝食の盆を受け取ると私の足は迷うことなくそこへと向かう。
「おはよう、謙吾」
「あぁ、おはよう。体調はもう良いのか?」
「一日しっかりと休息を取ったからね」
それだけ言葉を交わすと、黙々と食事に励む。暫くすると理樹と真人が共に現れ、同じように挨拶を交わして席に着く。ゆっくり睡眠時間を確保しているために逆に朝食の時間は限られている、無駄口を叩いている暇があるならば食事を口に運ぶ方が先決だった。そうしている内に、今度は恭介と鈴が現れた。兄妹とは言っても、男子寮と女子寮に別れている二人が一緒に来るのは珍しい。滅多にない出来事であるため思わず箸を動かす手も止まってしまった。
「うぃす」
「おはよ」
「おはよう、二人共。一緒に来るなんて珍しいこともあるものだね」
「ちょっとな。ほら、鈴」
「うぅー……だってそいつあたしから逃げるんだぞ!」
「でも、世話するって決めたのはお前だろ」
「分かった。あのな……新しいのが、増えたんだ」
鈴の腕の中に居る猫がそうかと思えばそこにはレノンが居る。では、新入りとやらは何処に? と思えば、鈴は恭介の腕の中を指し示した。そこに居たのはあまりにも見覚えのある灰色の猫。恭介の腕の中で心地良さそうに目を瞑っており、時々目を開けてきょろきょろとしたかと思えばその視界のレノンの姿を捉えると再び満足そうに目を閉じる。そんなことを繰り返していた。
「そいつ、昨日の奴じゃねえか」
「そうだ。あたしが二人まとめて世話することに決めた」
「鈴がそう決めたんなら、良いんじゃないかな。その方が二匹にとっても幸せだと思うしね」
「でもこいつ、あたしに全然懐かない」
「その猫はレノンを追いかけてきたんだろう? レノンが懐いているお前に嫉妬でもしているんじゃないのか」
「猫が嫉妬ねぇ……」
「そういうこともないとは言い切れないから」
そもそも、鈴がこうして今もレノンを抱いていることがますますあちらの猫の感情を逆撫でているような気がする。いっそのことレノンと二人にしてやれば昨日のように二匹で楽しそうに遊び出すのではないだろうか、そんな気がした。こうして今も変わらずに存在しているということはあの猫もまた一個の生命体であるのだろう。もう一度猫の姿になりたいとは思わないが、他の猫よりも愛着を感じてしまうのも無理はない話だ。鈴が手を焼いているというのならば代わりに世話をするのも吝かではないという気持ちにすらなる。
「それで、名前は何て言うの?」
「……何て言うんだ?」
「俺に聞くなよ。偶には自分で決めたらどうだ?」
「あたしがつけるより、きょーすけがつけたやつの方が覚え易い」
「仕方ないな。なら、こいつはヨーコだ」
「ゲホッ」
「おいおい、大丈夫かよ。まだ調子悪いってんなら今日も休んだ方が良いんじゃねえのか?」
「いや……大丈夫。ちょっと気管に入って咽ただけだから」
どういうつもりだか知らないが、朝から不意打ちをするのは止めて欲しい。お茶で流し込んで息を整えながら当の本人をじっと睨みつけると、素知らぬ顔をして食事をしている。こちらは有りもしない昨日の体調不良すら疑われているというのに、良い気なものだ。
「なるほど、レノンにヨーコか。お前にしては気の利いた名前をつけたな、恭介」
「あ、そういうことか。確かにこの二匹の仲の良さには合ってるね」
「ん? なんか意味があるのか?」
「ネットで調べれば直ぐにでも出てくるよ」
恭介のつける名前はいつだって有名人のものから適当に選ばれている、レノンという名前もあの有名な音楽家から取ったものだろう。そして、レノンにヨーコとくれば当然それが誰から取ったものであるかなど明白だった。仲の良い二匹だからその名前を付けたと言われればそれまでだが、あの猫が何であるかという昨日の事情を知る恭介がつけたとなれば話は変わってくる。私自身に近い猫にその名前を与えてくれたということが、暖かいような、くすぐったいような気持ちにさせた。
恐らくヨーコが存在するのは『今回』だけだろう、彼女は表には出さないと決めていた感情が発露してしまった象徴に他ならない。たった一度だけ、それも半日にも満たない短い時間であったけれど、それだけで十分だった。だから『今回』きりなのだ。それに、こうして目の前でレノンとヨーコが戯れている姿を見れば十分過ぎるくらいだと感じる。人としての私達はこの距離を縮めることさえ出来ないけれど、猫である彼達には何を気負うこともなく、ただ楽しく過ごして欲しい。せめて『今回』だけは、これくらいのことくらいは自分に許してあげても良いと、そう思えたのだ。