手が届かないと思っていた。 そう思っていた人と当たり前のようにメールのやり取りをしている。 それはとても嬉しいことで、けれど、同時に停滞したままの自分に否応なく向き合わされた。

ちゃん」

名前を呼ばれた。 そう思って辺りを見渡すが呼び止めたと思われる人は見当たらない。

「こっちこっち」

気のせいか、と思い直して歩を進めようとすると再び声が聞こえる。 その声は頭上から降ってきたように感じられた。 見上げてみたら、見知った人が階段の手摺りから身を乗り出している。 それは我が久遠寺高校のアイドル、篠原夏希先輩だった。

「良かった、気付いてくれて」
「夏希先輩、そんなことしたら危ないですよー」
「大丈夫、今降りるからちょっと待ってて」

ひらひらと手を振っていたかと思ったら身を翻して居なくなり、階段を降りてくる軽やかな足音が聞こえる。 そして数秒後にはしっかり私の隣に立っていた。 フットワークの軽い人だなと思う。

「私に何かご用ですか?」
「ううん、特に用事は無いんだけど。たまたまちゃんの姿が見えたから声掛けてみただけ」
「そうですか。あ、その節はお世話になりました。小磯先輩には御礼言ったんですが、夏希先輩には言いそびれてしまってたので」

部活の先輩である小磯先輩ならまだしも夏希先輩に一人で会いに行くのには流石に躊躇いがあり、迷っている内に時期を逃してしまっていた。 一応小磯先輩経由で御礼を伝えて貰えるようにお願いはしてあったけれど。 せっかくなのできちんと御礼を言っておく。

「え、あぁ佳主馬くんのこと? 私は別に何もしてないし、気にしないで」
「でも言っておきたかったので。夏希先輩が来なかったら、恐らく小磯先輩に断られてた気がしますし」
「そうかな、健二くんなら断らないと思うけど。そういえば、メール続いてるんだって?」
「はい、お蔭様で。……というのはちょっと違うかもしれないですけど」
「ふーん。親戚の私が言うのも何だけど、佳主馬くんってあんまり人を寄せ付けない感じがあるんだよね。それなのにちゃんとはメールしてるみたいだしー……もしかしてちゃんのこと好きになったのかも!」

悪戯めいた、でも誰から見ても可愛いと思える表情で、夏希先輩は何だか物凄いことを言ってきた。 親戚である先輩にもそんな風に思われてるカズマくんって何なんだろうか。 確かにメールの文面も多少素っ気ない所はあるけど、男の子なら皆あんな感じなんじゃないかと思う。 小磯先輩は別として。

「嫌われてはいないと思いますけど、好かれてるってわけじゃないと思いますよ? 話の合う友達、って感じですし」
「えー少しは意識してると思うけどなぁ」

尚も食い下がる夏希先輩に苦笑いを零す。 私にとってカズマくんがそういう対象じゃないのと同じように、多分カズマくんにとっても私はそういう対象じゃないだろう。 今では友達などと言っていられるが、かつては私にとってキング・カズマというのは果ての無い憧憬の相手だった。
闘っている姿に惹かれたのも事実だ。 けれど、何よりも焦がれたのはその精神だった。 OMCの参加者の中には、数回試合をしただけで止めてしまう人も居る。 その理由は『何回やっても勝てないから』というものだ。 しかし、そういった場合の大半は自分が何故負けたかを考えようとはせず、ただ我武者羅に試合をしていたに過ぎない。 試合に勝つためには自らの敗北の理由について考える必要がある、それはどんなプレイヤーにとっても基本的なことだった。



私がまだ『カズマ』だった彼に出会ったのは本当に偶然だった。 2年程前、色々と抱えていたことが終わったこともあって、私は一日中パソコンに向き合っていた。 中でも、興味はあったけれど今までは時間が取れなくて見れていなかったOMCのエリアには、毎日アクセスしていた。 その時に出会ったのがカズマだった。 恐らく、当時はまだOMCを始めたばかりだったのだと思う。 初めて見た彼の試合は、対戦者に秒殺と言っても過言ではない速さで負けていた。 初心者ならばそれも当然のことだから、『あぁ良くあることだな』、といった認識しかなかった。
次の日、偶然にも再び同じウサギのアバターを見付けた。 昨日から少しは進歩したのかな、という軽い気持ちで私はその戦いを観戦した。 其処で私が見たのは、昨日とは違うウサギだった。 何もアバター自体のカスタムが変わっていたわけじゃない。その動きが、まるで別人のように昨日から変化していた。 自分の何がいけなかったのか、それを理解して対策を試みた上で臨んで来ている。 その日も結局5戦目で負けてしまったが、2戦目で敗北した昨日よりは目に見える進歩だった。 その翌日も、私は同じウサギに出会った。 今思うと、私がOMCにアクセスする時間とカズマくんがログインしている時間が重なっていたのだろう。

そうして私がこのウサギを追い掛ける日々が始まった。 アリスのように異世界へ旅に出たわけではないけれど、今までとは全く違う日々を送るという意味で、OMCは私にとって正に異世界のようなものだった。


己を省みることで、着実に実力を伸ばして連勝を重ねる。 一方で何度やっても勝てない時期もあった。 それでも立ち止まらずにとても小さな点でも改善をしていく。 そうして積み上げていったものが一つの勝利に結び付いた時の喜びは、どれほどのものだったか。 私は画面の前で自分のことのように喜んでいた。

『この感動を誰かに伝えたい』

それが契機となって私は The Empire of Light を作った。 以前から持っていたブログにも追い掛け始めた日から記事を書いていたけれど、TELは彼の試合の考察する為に作ったものだった。

『OMCに面白いプレイヤーが居る』

この広い電脳の海の中で、他の人にもカズマを知って貰いたかったから。 それから半年後、カズマがランカー入りした頃からTELへのアクセスが徐々に増え始め、コメントで一部の間では噂になっていると聞いた。 TELへのアクセスが増えることは、つまりカズマがより多くの人に認識されていることを意味したから、純粋に嬉しいと思っていた。 この頃にはカズマの試合を観戦して考察することが、私のライフワークの一環として既に確立されていた。
そして1年前、遂にカズマは『キング・カズマ』となった。 同時にTELも一日のアクセスが膨大な数字となり、私は過去の記事を消すことにした。 一個人が趣味でやっていることだから彼のスポンサー企業から何かの制限を課されるようなものではなかったけれども、迷惑が掛かるようなことがあっては申し訳なかったから。そうして、今のTELが出来上がったのだ。


もしかしたら私はカズマを追い掛けていなかったかもしれない。 たまたま出会ったのが彼であっただけで、時間が違えばそれは他のプレイヤーだっただろう。

それでも、私はカズマと出会った。

何もかもが嫌になっていたあの時に、キングとなる人に巡り会ったのだ。 出会ったその時からキングになるまでずっと見ていたから分かる。 彼が多くの挫折や障害にぶつかったことを、そしてそれを乗り越えて来たことも。 誰にだって負けていた頃はある、当然キングにだって。 何度敗北しようとも諦めたりしない、彼がそうだったからこそ私は憧れたのだから。 諦めなければどんな存在にも変わることが出来る、それを彼は教えてくれた。

この2年間でカズマは変わった。 この夏のラブマシーン事件も、彼に大きな影響を与えただろう。 じゃあ、その間に私は? 私は――――



「おーい、ちゃん?」

気が付くと、夏希先輩が身体を屈めて私の顔を覗き込みながら、眼前で手を振っていた。
どうやらかなりの間、思考の海に沈んでしまっていたらしい。

「うわ、済みません! ちょっと考え事してました」
「いきなり黙っちゃうからどうしようかと思ったよ、大丈夫?」
「はい、全然平気ですから。大したこと考えてなかったですし」
「でも何か深刻そうな顔してたけど……」

先輩に心配そうな顔をさせてしまって、凄く悪いことをした気分だった。 何とか誤魔化さないといけない。 今はまだ、誰にも言えないから。

「あ、ほら夏希先輩、そろそろお昼休み終わっちゃいますよ。教室に戻らないと」
「え、もうそんな時間? 次の授業移動教室だった!! じゃあちゃんまた今度ね、佳主馬くんのことで何かあったらいつでも相談してね!」

一応頷いておいたけど、受験生である夏希先輩に相談するのは無理だろう。 そんなことしたら各方面から苦情が来そうだし。 擦れ違う人が思わず立ち止まって見送る、そんな眩しい姿を見ながら思った。

「私にも出来るのかな。『変わる』……いや『進む』か」

小さな呟きはそのまま霧散した。


(後一歩が踏み出せない、その強さが私には無い)